理解すること
素晴らしいと評価されているものでも、自分には特段価値があるものには感じられないことがままある。特に現代美術、現代音楽。なぜ価値があると感じられないのだろう?多分、作品を「理解できていない」のだった。
理解って、どのように成立するんだろう。
そう考えていた時期があった。
話せば長くなるけれど、ボクは芸術をメディアだと思っている。その時どきの感性を、他者に伝えるものとして創造され、伝搬され、受け手の精神に影響を及ぼす。
受け手として重要なのは、もちろん作品を理解することだ。つまり、作品を通じて伝えたかった作者の想いを推し量り、自分を変容させること。では、よりよい理解のためには何が必要なのだろう?
そこで必要になるものは2つある。教養と柔軟さだ。
教養がなければ理解することはできない。ここでいう教養とは単に知識のことではなく、経験、環境、信条などを含んでおり、広義での「わたし」とも置き換えられる。
例えば子供への愛を描いた美術は、子供を実際に持たないと深く理解することはできないかもしれない。不倫を歌った歌でも、実際にふたりを同時に愛さなければ共感することはできないかもしれない。高校生の頃に読んだ古典を今読み返すと、全く違った感情を抱くかもしれない。
「わたし」の幅によって、理解の幅も規定される。ここに芸術の面白みがある。
柔軟さが欠けると、理解の段階で最も重要な「受けての精神に影響を及ぼす」過程が不可能になり、鑑賞は何の意味もなさない。
誰にとっても、自分にとって全く無知の感覚は、ひどく不快で汚らしいものに思われる。ある人は理解の新しい枠を自分の中に設置し、世界を広げる。ある人は見向きもせず、理解しようとする努力すらしないで自分の世界に閉じこもる。
理解することに対する努力を惜しまず、自分の幅を広げることができるか。人間としての成長はそれに規定される。
柔軟さを持ち続けたい。