ハネウマライダー考「虚像と実像の融合する狂気」
2006年にリリースされたポルノグラフィティのシングル曲「ハネウマライダー」。
衣替えが終わっていよいよ本格的に暑くなり始めた6月28日。当時中学生だった僕は制服のまま、家から歩いて5分のところにあるTSUTAYAにその円盤を買いに行ったことをよく覚えている。
ポカリスエットだったか、清涼飲料水のCMソング。爽やかなメロディは「青」を感じさせ、それは暑い夏に非常に[マッチ]して部活帰りの僕の心を多少前向きなものにした。
そんなハネウマライダーの歌詞について、当時はあまりよく理解できなかった。メロディにばかり気を取られて歌詞を見つめる習慣と感性が、13歳の僕にはなかったのだ。
最近になって改めて耳にした。バイクではないが車の中で。そこで気づいた。この曲のことを理解できなかったのは、虚像と実像が混在しているからだ。しかしその融合が曲にちょうどいい塩梅の「幻想性」を与え、崇高なものに昇華させている。
そういう話です。
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新たな旅立ちに Motorbike、オンボロに見えるかい?
Handleはないけれど、曲がるつもりもない。
HandleのないMotorbike。想像するだに実用性のかけらもないその物の表現は、実在のものというよりもなにかの象徴であることを明示している。安直な解釈になるが、これはサビで示されている「心」のことであろう。
昔からずっと付き合ってきた「心」。不確かで無鉄砲なそれを、シンプルかつ的確に表現している。
心は、空を裂く号令を聞いた跳ね馬のように乱暴だけど、
それでも遠くまで運んでくれる。
ここまでは、「Motorbike=心」という図式が成立する。自分を突き動かす「心」の思うままに進んでいた自分。ここまでは、実体のない精神的な領域だ。しかし、次の部分から世界が歪み始める。
ただ必死にしがみついてたら、君が目の前に現れた。
Hey You! このBig Machineに乗っていけよ。
「君」という器質的な物体の出現は、世界を抽象的なものから具体的なものへと引きずり下ろす。これ以降、2つの視点が奇妙に「噛み合って」「時間を刻む」表現になっている。
Mirror取り付け、見つめた後ろに寄添う人。
海が見たい、と言われたから Handleきって。
前半の表現は、これまでの部分とは打って変わって写実的だ。これまでの「Motorbike=心」という図式はこの時点で完全に崩壊する。「君」の出現は、これまで築き上げてきた表現を完全に打ち壊す。それは、これまでMotorbikeに備わっていなかったはずのHandleが出現することにも明らかである。
「『君』の出現が『僕』の心を塗り替えたのではないか?あくまでもMotorbikeはかたちを伴わず、精神的なものであり続ける解釈はできないのか?」とも考えるが、その場合Mirrorの表現により具体の提示をする必要がない。意図的なのか偶然なのか。この部分に「虚像と実像の融合する狂気を伴う」のが、この曲のポイントだと思う。そしてこの点は解決することはない。
ただ、この狂気はある種ポジティブな方向に作用する。すなわち、曲全体に捉えどころのない「幻想性」を付与するのだ。これによりこの曲はキャッチーなサビのメロディだけでは到達し得ない表現力を獲得している。これがこの曲を「名曲」たらしめている所以だと、僕は解釈する。
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とはいえ、ハルイチがここまで考えて書いたとは思えないんですよね。バイクと人生を重ね合わせるダブルミーニングに終止して、幻想と現実の境界に関してはその次点に成り下がっている。という点からはこの曲は未熟なものだと感じています。しかし歌詞が未熟であればあるほどダイレクトに情景が浮かぶという利点が、この曲を高い次元に昇華させている。
2006年よりもこの曲に潜ることができるようになった。もう少し言葉にして考えてみよう。ちなみに上動画の岡野さんのダンスがクソダサくて愛嬌に満ちているのが好きなので見てみてください。
卑屈すぎんだろ
iPhoneのメモを漁っていたら、2年ほど前のメモが出てきたので供養します。
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最近人のこと(含行い)を「嫌いになる」ことがある自分に失望と驚きを覚える。というのも、そのようなことは少なくとも金沢に来るまではほとんど経験したことがなかったから。恐らくこれは自分にとっては新しい感情で、それとの付き合い方をまだ確立できていないのだと思う
なぜ「人を嫌いになる」ことがなかったのかというのはハッキリしていて、端的にいうと『自分以外の全ての人は自分よりも優れていると本気で思っていたから』。正確に言えば今でもそう『思っている』、もしくは『思いたいのだと思う』。
自分にない特性を一つでも持っている人は、その点において自分よりも優れているので、自分はその人よりも劣っている。具体例を挙げると、例えば毎朝早く学校に来て予習をしていた隣のクラスの女の子は、例え僕より成績が悪かったとしても、僕には出来ない「毎朝……予習をする」ということを出来ていたのだから僕は彼女を尊敬していた。もしくはそれを出来ない自分は彼女より劣っていると思っていた。
これは明らかに拡大解釈的ではあるけれど、その発想からは未だに抜け出すことはできていない。そして自分と同じ人間など存在しないのだから、当然の帰結としてとして「自分は他の誰よりも劣っている」と感じていた。そして他の誰もを尊敬していた。
そうした"劣った"自分を愛することはできないまま現在に至るわけなのだけど、最近どうしたわけか他人を尊敬できなくなってきた。
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今でも「自分は他の誰よりも劣っている」という感覚は拭いきれませんが、
当時に比べてその感情との付き合い方は改善されたように思います。
(どう改善されたのかを考える余地あり)